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毎度の神田「浜貞」へ信濃町経由 平成28年2月23日(火)

毎度の神田「浜貞」へ信濃町経由 平成28年2月23日(火)

(本日、ふたつめの記載)


遊びほうけた一日。


昼、大学水泳部の学生さんと会うために信濃町(東京都新宿区)へ。
メーヤウで「カレーっぽい食べ物」を食べたあと、なんだかスゴイものがあるとのことで、、

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細かい場所を記載すると多方面に迷惑がかかるから省略。
30年前に僕自身が生理学とか病理学とかを勉強した建物です。

最近の学生が麻雀をやっていることもうれしいし、何より、彼らの行動力が素晴らしい。
こんな大きな「お荷物」を運び込むなんて。
せっかくなので1時間半ほど遊ばせてもらった。1年ぶり以上だと思う。

これからも、よく遊び、よく泳いでください。

ちなみに、この左側の学生さんは、KO高校の水球部出身。
部活動を3年の夏までやっていて、医学部への進学。これはよほどの才能と努力です。
伊香保温泉で麻雀+水球ツアーを企画したいです。


………


夕方5時、神田へ。
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東京に来れば必ず立ち寄る名店。神田駅前、徒歩2分。
汚ーーーい外観は無視。
「ふぐ」という看板も無視。
これ以上ない魚を食べさせてもらえるお店。
↓必ず食べなければいけないアジ
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動いてます。
刺身を食べ終わったあとは骨をカラアゲにしてくれます。それもまた絶品。

↓イカ刺し。同じく、動いてます。
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その他に、タコ刺しも動いてました。


お相手は、コシュとあやのいちさん。
こんな早い時刻に飲み始められるなんて、お二人とも仕事をしているのでしょうか。

ちなみに、あやのいちさんは、子供の教育環境を考えて「海と山と川のある新幹線通勤の町」へ転居したそうです。塾長さん自らが、塾よりも空気を選ぶわけですね。
じゃぁ、群馬がいいんじゃない?

『群馬ほど教育不毛の土地はない』と。


………


さらに夜7時。
新橋へ移動して、幸福さん、サイクルさん、蓮さん、網野さんと合流。
まっとうな社会人の時刻です。

2軒ハシゴして、眠るほど飲んで、新幹線で帰宅。
24時には家の玄関に着いたのだから、やはり「群馬でもいいじゃん」と。


WCCFの話はたくさんしたけど、ゲームそのものは一個もしなかった一日。

練習は午前中にちゃんとランニング5㎞やっときました。
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by akogarehotel | 2016-02-24 17:11 | あちこち旅行記 | Comments(4)  

「いねむり先生」 平成25年9月15日(日)

「いねむり先生」 平成25年9月15日(日)

  
半沢直樹すら興味がない私が、テレビドラマなんてものを久しぶりに見ました。
半沢直樹の裏番組を。


「いねむり先生」

伊集院静の事実に基づく自叙伝。
妻、夏目雅子を白血病で亡くし、その後、阿佐田徹也(劇中表記「徹」)と出会い、過去の人生を見つめなおすというもの。
要所要所に、麻雀と競輪のシーンが盛り込まれている。

私は原作を読んでいないが、おそらくそこそこの長編でしょう?
それをギュギュっとドラマ枠に縮めた感が強い。
よく言えばスピーディ、悪く言えば省略形。よく見ていないと、伊集院静が何を言いたいのかを見逃してしまう。
が、それを助ける名優、西田敏行。さすが競輪大国福島が生んだヒーロー。
見た人すべてに、よくわからない感動を与えてくれる。

おもしろかったですね。
少なくとも時間の無駄ではなかった。


(ちなみに、本来は「阿佐田哲也」。劇中に西田が色紙にサインしたのは「阿佐田徹也」。
違う?)


………


しかし、一番、目についたのが、

一番、怒りたいことが、、


競輪界のやる気のなさ。。。。

JKAだか、競輪選手会だか、日本自転車振興会だかが、しっかりと「協力」と出ているのに、、、

お前ら、ちゃんと協力してんの?
それで、競輪の宣伝になるとでも思ってるの?


なんで、平成盤のユニフォームなの?
現在の平成のユニフォームは9色。
阿佐田徹也のころの、昭和の時代は、7色。5、7、9番車は2色使用した縞々模様だった。
旅館や町並みが昭和風なのに、なんで競輪場だけが、「全部平成」なの?

小物に関しても、
阿佐田哲也が新幹線や、居酒屋で支払うときのお金は旧札。500円札まで登場する。
なのに、なんで競輪場で車券を買うときだけは、福沢諭吉なの?

ま、マークシートが登場しなかったのは許す。
というか、万が一、登場してたりしたら、すぐにテレビを消す。


しかし、車券そのものは、バリバリに現代風の印刷モノ。
ついでに、その場面、
テレビでのゴールシーンは、8-6。
「当たった。大穴だ。」と喜ぶのは許す。8-6だものね。でも、手持ちの車券には、2-6と印刷してある。

なめてんのか?


弥彦競輪でのシーンは、もはやお話にならないレベル。

だって、7車立てだよ?
ありえない。

しかも、そのレース直後のシーン。
伊集院静役の藤原くんのセリフは、

『10レースが終わりました。』

いつの世の中に、第10レースが7車立てだったことがある?
私の記憶が正しければ、日本の歴史上、そんなことは一度もない。


要するに、「レースシーン」の製作協力が全くないんだよね。
実際にあった適当なレースビデオを、テキトーにはさんであるだけ。
たった9人のバイト選手に古いユニフォームを着て走ってもらうだけでいいのに、それができない。
やらない。
やる気がない。


頭に来たから、明日の京王閣オールスター決勝は1円も買わない。


………

それに引き換え、麻雀界の気合いは違う。

もはや芸能人というよりは、麻雀界の人となった萩原聖人は当然。
さらに、阿佐田哲也の直弟子の小島武夫が牌さばきを指導し、自らも出演。
(競輪でいえば、レースシーンに中野とかヤマケンとかが出るのと同等。)


しかも、劇中の1分もないであろう麻雀シーンの、あがり形まで気を配っている。

阿佐田哲也が、③⑥(3、6ピン)のどっちを捨てるか悩んでリーチしたところを、伊集院静が③⑥(3,6ピン)のシャボであがるとか。たぶん、誰にも気づかれないところに、ものすごく気を使ってる。


ま、倒した牌がきれいに理牌されてるのは、テレビだから仕方がないけど。


だから、一層、競輪界の手抜きが目立っちゃうんだよね。


………


最後のシーンがあっけなく登場したので、少し補足。

阿佐田哲也は、心筋梗塞による「心破裂」で死亡。突然死。
あの肥満で、たばこをふかしていれば、医学的には当然の結果。

ただし、本人も劇中で

『人は病気で死ぬのではない。寿命で死ぬのです。』

と言っているので、十分理解していたと思われる。

ただ、有名な阿佐田哲也原作の「麻雀放浪記」のセリフ。

ドサ健 『死んだら負けだ。負けたやつはハダカになる。それが決まりだ』

阿佐田哲也も、年をとって人生観が変わったんでしょうね。



ということで、

「いねむり先生」の原作を読んでみたくなった。
ついでに、
今回の作品がDVD化されるという。DVDでもう一度見てみたい。

ちなみに、阿佐田哲也の作品は「全て」読んでしまったので、これ以上ないのが残念だ。
麻雀放浪記は何度読み直したかわからないくらいだ。


でも、一番おもしろいのは 「ドサ健バクチ地獄」。


………

今夜は星がきれいだな。明日は晴れるかな。
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by akogarehotel | 2013-09-16 00:36 | この本を読め | Comments(4)  

麻雀放蕩記 後編  平成24年2月

麻雀放蕩記 後編  平成24年2月


バブルの時代。
全自動卓の普及とともに「気軽に遊べる」雀荘が続々と開店した。
大学生をターゲットに、テンゴが主流。
誰もが小金持ちであり、サービスのよい清潔なお店には、常に待ち客があふれていた。
といっても、「○○プロの店」のように硬派な雀荘がほとんどで、ギャル雀が出現するのは、もう少し後の時代になる。

地方出身のミーハーな私は、喜んで「○○プロ」に会いに行く。
金子正輝プロとか、狩野洋一プロとか、もちろん、片山まさゆきの店にも。
で、ある日、高校時代の同級生のコジマ君(前述)の雀荘に、あのババプロが来るという。荒川区から、遠路はるばる聖蹟桜ヶ丘まで遊びに行った。

バビィ見たさに集まったお客は10数名。こんなもんか。
そして、予定の時間に2時間近く遅れてやってきたバビィ。
しかし、誰もが予想していたことなので怒る人もいない。有名な話。

で、順番で対局となり、、、私が親のときのこと。
私がダブりー。
ババプロ、全つっぱ。で、字牌を二つ鳴いて、、、、

小四喜をつもりやがった…
全自動なので、さすがに積み込みではなく、横はサクラではない。というか僕の友人。
さすがだね。

でも、よくよく考えたら、こんなところで運を使ってる場合じゃないんじゃない?プロなんだから本職のほうが。。。

でも、おかげで、あの分厚い唇が僕の記憶に永遠に残ってます。
それもプロの道?



もちろん、桜井章一の店にも通った。
小田急沿線のはるか遠い街に雀鬼様の1号店が開店した。当時は、雀鬼というよりも、片山まさゆきのマンガに出てくる「桜田門外」という冗談キャラ的に認識されることが多かった気がするが、。

桜井章一の「フィールド支配」は有名。
『場を平たくする』がキーワード。
でも、これはその後、雀鬼会が活動を始めてから公表されてきたことで、1号店が開店した頃は、そんなことは全然知らない。たぶん、みんな知らない。

私がラス目のときのリーチ。
まさかの桜井章一さまが振り込んだ。高めの一萬でメンピンイッツー。
しかし、これが「フィールド支配」なんだな、と10年後くらいに気がついた。

でも俺って「雀鬼から満貫あがった男」


学生時代に主にホームにしていたのは、巣鴨の雀荘。
北口のまんじゅう屋から20mくらいのところにある雀荘で、最初の名前は「アルファ」といったが、その後、僕の知る限りで2回経営者が代わっている。今はないかも。
学生時代は体力の限界に挑戦して、40荘連続したこともあるが、

「それのどこが偉いの?」

と同卓したオヤジから言われて、目が覚めた。
勝率が4割にも届かない身分では、何も偉くない。
勝ったり、負けたり、負けたり、では全然偉くない。

そんなわけで、経験豊富なオヤジと、タバコの煙に鍛えられた、あの頃、
真夜中に山手線2駅ぶんを散歩代わりに歩いて帰るのが、意外と楽しかった。たとえ500円でもプラスだと、なんだか偉くなった気がするんだよね。



大学の同級生とも、もちろん麻雀をする。
御存知の通り、私の大学は名門大学だが、それでもメンツは充分に足りる。大集合の号令をかけると8人くらいは簡単に集まってくる。
ただ、やはり精鋭メンバーは3人にしぼられる。

3人?

大学の同級生同士ではサンマが主流だった。4人いても「2抜け」でサンマをする。
萬子(ワンズ)の2から8をのぞいて、あとは普通に手作り。北は常時ドラ。手の中で使ってもいいし、花牌としてもいい。当然、ピンフ三色はない。というか染め手ばかりになる。チンイツ連発。
符計算はなし。全て30符換算。和了は1000点単位になるので100点棒は使わない。1本場は単純に1000点加算。
ロンなら正規の点数をもらえるが、自模の場合は一人分点数が少ない。でも本場が増えればツモのほうが得にもなる。
飛んだら、飛ばした直接の人にチップ10枚。役萬はツモなら二人から10枚ずつ、ロンなら振り込んだ人から10枚。
四人麻雀よりも運に左右され、1荘が早く終わり、動く数字も大きいのでギャンブル性が高い。

大学前の雀荘では、僕たちを見ると店主さんが即座にサンマ用にセットしてくれる。(全自動でも、適当な牌を抜くだけで簡単にサンマができる。)

「学校に行くよりも雀荘に行くほうが多い」
そんなの当然だよね。みんなそうでしょ?
ちなみに、
「学校よりも、雀荘よりも、メーヤウに行くほうがもっと多い」
メーヤウとは有名なカレー専門店です。(過去ブログに登場)


当時の精鋭3人。
といっても、うまい、のではなく「いつもの3人」「最後に残る3人」は、
僕とコージ君とケンジ君。
コージ君はサッカー部のキャプテンで女好き。「○○にフラれたぁ」が口癖。
とてもじゃないが、キャプテンシーボーナスがあるとは思えない。
ケンジ君は吹奏楽部。麻雀が大好きで仕方ないくせに部活の練習も多忙。
吹奏楽の練習中に呼び出しをかけると、喜んでやってくるが、、、、残された吹奏楽仲間から非難轟々。オーケストラだから当然だが、非難の矛先はもちろん僕。
それは違うよ、ケンジのほうが麻雀大好きなんだから。自分から喜んでやってくるんだから。

学生時代は全てが挑戦。一度、30時間耐久麻雀をやってみた。麻雀自体は楽しく終わったが、その後、疲れて眠ると、、、

夕方6時ころに眠ったはずなのに、起きたらまだ夕方6時だった。
24時間眠り続けた!
その間、一度も目が覚めることなく、水も飲まずにトイレにも行かずに。
そんなことが医学的に可能であるという実験になった。

ケンジ君もコージ君も現在、僕と同業で活躍中。
30時間麻雀で体力を鍛えたので、12時間のオペくらいどうってこともないらしい。




1990年代なかば。
大学を卒業するとき、麻雀のプロテストを受けてみた。
今も麻雀は日陰だけど、当時ももっと思いっきり日陰の時代。
一般公募するプロの団体は1つしかなかったと思うが、その団体の構成員は全部で50人くらいと記憶。合格数名程度のテストに集まった受験者も40人くらいだった。
確率的には、大学受験のほうが圧倒的にむずかしい。
が、もちろん合格しようなんて虫のいいことは考えていない。実力が足りるわけないことくらい自覚している。
それでも、一応、記念受験以上の気持ちで吉祥寺の試験会場へ。

1次試験は筆記と面接。2次試験が実技。
筆記試験では、
「解答が複数存在する質問はない」とどこぞの掲示板みたい。
いわゆる『何切る』的な問題はない。

何待ち?とか点数計算とか、正解が1つしかなく誰でも当然答えられる問題。

麻雀以外に「一般常識」も。
『英訳しなさい。「私の名前はタローです」』
麻雀だけで生活している人を除外するためでしょうか。

『大韓航空機爆破事件の犯人とされている女性の名前を漢字で答えなさい』
これは答えられなかった。「キムヒョンヒ」が漢字で書けない。。。

で、予想通りに1次試験で不合格。実技試験を受けても恥ずかしいだけだったろうから、これでいいよ。



ということで、フマジメに大学を卒業して、マジメな社会人へのレールに乗った。マジメな社会人には、当たり前のように激務が待っていた。
仕事で強要されたポケベル生活。
携帯電話がやっと開発され始めた時代なので、まだ携帯1台8万、さらに新規契約料が8万、通話料が1分100円。こんなの持っている人は滅多にいない。
ポケベルなら月5000円の契約料。

ポケベルは24時間おかまいなしに鳴ってくれる。もちろん仕事の呼び出し。
睡眠中に鳴るくらいなら構わないが、
リーチ中に鳴るのは非常に困る。
「ピンチ」を頼んで電話に行くタイミングなんて、なかなかない。

雀荘に通う回数は自然に減少していった。




1990年代も後半。もうすぐ21世紀というころ。
ギャル雀が増殖した。
私の理解では、水道橋の「ピーチは桃」が先駆者?
その後、池袋へ2号店を出して、そちらがメインになっていった。ちなみに、「リーチはツモ」をもじって店名にしている。
他には高田馬場の「ポリエステル…」なんてのが超有名店。
若者を誘い込むためにテンゴやテンニ。

ただ、、、個人的にはあまり乗り気にはなれない。
レートは構わないが、
綺麗な「ギャルメンバー」さんは、
ツモッてから、20秒くらい考えて、理牌しなおして、
「えーっと、リーチ?(^^)にこっ」

殴ったろか!

そのぶん、ぬるいメンツが集まるから、、、、、、、
ぬるいメンツも同じような輩だから、ストレスはマシマシ。
メイドと一緒。好きな人は行けばいい。麻雀経済を活性化していることは間違いないので存在自体は大賛成。

同じころ、フリー雀荘のバリエーションも増えた。ピンの東風なんて店が雑誌に宣伝をするようになった。動く金額からすると、大々的な宣伝はちょっと危険な気がするが、
東風のフリーはおもしろい。1000点の価値が違ってくる。でもピンはちょっと恐い。1時間で3,4万なんてこともある。



現在(平成24年)。
もう数年、麻雀なんてやってない。池袋の信長麻雀オフが最後だ。
さすがに時間がない。WCCFなら1時間でも楽しめるが、麻雀は何時間も必要だから。
マトリクスから歩いていける距離に「地元民用」のフリーがあるんだけど…
見てるだけー。


以上、作文「わたしと麻雀」でした。


あんた、背中がすすけてるぜ


御無礼


ヅガーーーーーーン



♪花をめしーませーーー、めしまーせ、はーなーをーーー、
あなた、恋しーいーーー、はなうーーり、むーすーめー♪


死んだら負けだ。負けた奴はハダカになる。
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by akogarehotel | 2012-02-25 12:39 | ただの日常日記 | Comments(5)  

麻雀ほうろうき 平成24年

麻雀ほうろうき 平成24年


突然ですが、勝手に昔話。麻雀放浪記。放蕩記とも。

むかしむかし、あるところに…


昭和40年代。

ものごころつく頃の私。
麻雀をしている父の膝の上に座って、

私「この白いのは何も書いてないよ。何これ?」

父「言っちゃ、だめ!」

と、よくある実話。
さすがに幼稚園生だった私は、麻雀のルールは分からず、
「積み木」としてしか牌を眺めていなかった。もちろん、白くて何も書いてない「積み木」が一番人気。
でも麻雀の存在はしっかりと理解。

僕が父の膝の上から手を伸ばして積み木で遊んでいると、数分のうちにすぐにガシャガシャとくずされちゃうし、、、
紙のお金があちこちに置いてあるし、、

あとで父に聞いたところでは、着ウマだったらしい。
点差に関係なく、4着が1着にいくら支払う、という感じの。随分とヤクザなルールだ。


父は私と同じ職業なので、勉強や仕事をたくさん教えてもらったかというと、、
そんな記憶は全くない。
もちろん、私の辞書に「尊敬」という文字はない。
しかし、私に大事なことを二つ教えてくれた。
競輪と麻雀。
(過去形だけど、父は今も元気にグリーンドームへ通ってます。)
両種目とも、私にとっては師匠。まだ越えられない。

このレースで⑥番車を買うか?!

という、私には到底理解不能なレベルだ。


そんな昭和の時代に、
うちに遊びに来る父の友人もまた同じ職業。
とすると、そのとき飛び交ってたのは聖徳太子なのだろうか。今で言う福沢諭吉のこと。
毎年年末には10人くらい集まって、ジャラジャラと音をさせていた。見ていたかったけど、「子供は寝なさい」と言われてつらかった思ひ出。



小学生になった、ある冬。
風邪をひいて(推定インフルエンザ)、自宅で退屈に過ごしていると、
つまらなそうな私をみかねて、母が麻雀のルールを教えてくれた。

山を4つ積んで、13枚引いて、役を作って、、、

それまで「積み木」だったものが、やっと「牌」になった。
しかし、一人では麻雀はできない。小学校の友達が麻雀なんてできっこない。仕方なく、何かの特別な日だけ、父が「二人麻雀」に付き合ってくれた。
このへんが師匠なわけだが、、、

「ピンフなんて、役じゃない。」

ふーん。。。。。



昭和60年代。

高校生。県内1番の進学校へ。といっても所詮群馬県なので日本で1000番めくらいの進学校。要するに、大学受験は個人の責任という高校?

高校生になってやっと麻雀をする相手ができた。
その筆頭は、水球部の先輩のイブキさん。
イブキさんのお父さんはどこぞの大学教授、という名門の御曹司のはずだが、
御本人さまは、、
ガッチガチのリーゼントに、制服の上着を開けばまばゆいばかりのキラキラ玉虫。ズボンは中野浩一でもはけるくらいの巨大サイズをズルズルと引きずっている。極めつけは、先っぽが20㎝くらいとんがってて、人に刺さりそうな靴。こんな靴をはけるのは、魔法使いのおばあさんとイブキさんだけだ。そんな格好で自転車通学するなんて、まさに尊敬に値する。

部活の先輩は、麻雀でも大先輩であって、負けた記憶しかない。
得意技の「ピンフ攻撃」を何度もくらった。
で、当時、麻雀を教えていただいた授業料を支払うわけだが、1週間まとめて600円とか。あまり物価が変わっていないのだから、平和な麻雀だった。
(現在、マトリクスに来る中学生は1日で1000円使ってるから。)

ちなみに、そんなイブキさんは現在、僕と同じ職業で大活躍中。



そんなわけで、毎日毎日、部活のあとに部室で仲良く過ごしていると、同級生部員も興味津々で覗き込んできて、、、、
さらには、部活以外のメンバーも加わって、、、
順調に布教活動が進行する。


当時、同級生で一番強かったのはナル君。
リケルメそっくりの彼は、お金に滅茶苦茶固執して点棒1本の差を見逃さない。現在、桜田門関係の公務員として国民のために熱心にお仕事中。
一番弱かったのは私、ではなくて、マス君。
彼がプラスになった記憶が私にはない。現在、行方不明。

同じクラスでよく遊んだコジマ君は、なんと卒業後に雀荘の店長になった。
しかも聖蹟桜ヶ丘。
って、どこ?っていうくらいの僻地。
東京の西のほう。なんで群馬出身で、そんなところで?
ということは置いといて、
彼は、高校3年のとき駿台の夏期講習を申し込むために大金を持って東京に行ったが、御茶ノ水ではなく歌舞伎町へ行ってしまい、
どこぞのお店のお姉さんとお兄さんに有り金を全部取られてしまった、
という輝かしい経歴を持つ。
だから、突然、東京で雀荘の店主になろうが、誰も不思議には思わない。
しかし、当然、雀荘なんて不景気になれば、あっというまに消滅する。今ではコネで群馬県の地元の農協で働いているとか。


自分周辺の同級生だけで充分にメンツが足りていた高校時代。卒業間近になって別グループの存在を知らされた。
カベ君とモリ君たち。
彼らのレートは僕たちの10倍。モリ君の家はいわゆる「ゲーム店」で、「違法」に限りなく近い店らしい。
「ゲーセン」ではなく「ゲーム店」。
一度、彼らにご指導を受けたが、当然、ボコられた。まさにフルボッコ。
「井の中の蛙」という言葉を強烈に実感した貴重な経験。

ナル君によると、「あいつらは『通し』をしている」というが、カベ君は本当に優しくていい人で、とてもじゃないけど、そんなことをするようには思えない。
って、その時点で俺だまされてる?



高校時代には文学にも勤しんだ(いそしんだ)。
みんなが読むから、念のため赤川次郎を全部読んで、そのほかに、

誰もが知っている文学の神様、阿佐田哲也を全書読みあさった。
阿佐田哲也は、有名な「麻雀放浪記」以外にもワクワクどきどきする麻雀小説を数限りなく発表している。そのすべてが、読みながらトイレ休憩ももったいないくらいの素晴らしい冒険小説で、あえて1冊オススメするなら「ドサ健ばくち地獄」か。
阿佐田哲也のおかげで、麻雀牌の文字印刷が開発されたという。雑誌や小説の文章中に当たり前のように登場する麻雀牌の、絵のような、文字のようなもののこと。

阿佐田哲也というPNは「朝だ、徹夜」に由来するというのは有名で、
麻雀放浪記に登場する「坊や哲」が本人であろう、というのも周知の事実。
「色川武大」という名前で麻雀とは関係ない小説も書いていて、なんかの賞を受賞している、というのも有名。
かなりの肥満で、医学的には超不健康。ナルコレプシーという睡眠発作を繰り返したというが、これは本当かどうか、、睡眠無呼吸の間違いではないか。
心筋梗塞を起こして、心臓が破裂して亡くなった、ということも非常に有名で、大学の「心筋梗塞」の授業では、必ず阿佐田哲也の話題になる。

もちろん映画「麻雀放浪記」も三田。
戦後の雰囲気を出すために白黒なのだそうだが、目が悪い僕にとって、白黒ってのはキツイ。
内容はもちろん前のめり。
主役の坊や哲は真田広之。「素」のままの頼りなさがナイス。
ドサ健は加賀丈史。料理の鉄人とは正反対のマジメ役。雰囲気もりもり。
その後、ビデオを借りて何度も見直してしまった。




時代は平成へ。
大学へ進学。

父親が「見ず知らずの人と麻雀をするな。徹夜麻雀をするな。」
と言っていたが、そんなの説得力が1ミリもない。

大学のために一人暮らしを始めたとたんに、速攻で雀荘デビュー。
学生時代に住んでいたのは荒川区。家から自転車で数分のところに雀荘を発見した。大通りに面しているものの周辺は住宅街。小さな看板に
「おひとりさまでもどうぞ」
と書いてあるだけ。
最近の雀荘のイメージからは随分とかけ離れている「昭和の雀荘」。
雀荘デビューには、ちょっと見当違いだったが、、、、


ガラガラッと引き戸を引くと、狭い店内には雀卓4つ。
そのうちの2卓で、50代、60代のおっちゃんたちが黙々と打っている。余っているお客はいない。

突然の訪問者に対して、一人か二人が怪訝そうに振り向くが、ほとんどのお客が、そんなことには目もくれず麻雀に没頭してる。
店の人らしき姿はない。

あいている雀卓に座って待つことにする、と、

お客の一人が「お兄ちゃん、うつの?」と。

蚊の鳴くような声で「はい」とうなずく私。

すると、奥のほうから店主と思わしき60代くらいのハゲたおじさん。
恐いハゲではなく、単なるハゲ。
「ちょと待っててね。今すぐあけるから」

そりゃ、そうだ。
どうみても、いいカモだ。
常連客どうしが叩きあっている雀荘に、たまたまやってきた新規の客。しかも、とてもじゃないけど麻雀が強そうには見えない。オドオドした外見。
常連客を追い返してでも、席を空けてくれるのが普通。

ということで、ほんの数分待っただけで、すぐに御案内。

レートは200円。いわゆる「テンゴ」の4倍相当。
その他に「ゲーム代」と称して1000円ずつを卓の上に置き、半分を店へ、半分をトップが持って帰る。


手積みの雀荘が一般的だった時代。ジャラジャラ言わせながら17枚を積んでいく。
初めての雀荘。初めての他人。で、手積み。
手が震えるが、山をくずさないことだけに集中。くずして罰符を請求されたらたまんないから。

そんな緊張の初雀荘。
半荘2回で、結果は当然、ラス、ラス。
完全伏牌なので、積み込みはされてないと思うのだが、ガンはついていたのかもしれない。

例えば、
親の僕。第一打の捨て牌が、2ソーで、10巡目くらいにリーチ。1ソーの単騎待ち。リーチドラドラの7700。リーチ後に4ソーをツモ切った。
しかし、この1ソーが全然出てこない。2ソーが4枚出きったが、1ソーは1枚も出ないで流局。

レベルが違いすぎる。
いい経験をさせてもらった料金としては安かったのかもしれない。


(後編へつづく)
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by akogarehotel | 2012-02-24 16:34 | ただの日常日記 | Comments(2)